新自由主義の二面性

新自由主義は、個人の行動様式としては反ナショナリズム的であるが、集団のそれはナショナリズム的である。
これはなぜかというと、新自由主義者経済的利益を優先するため、個人の選択としてはイデオロギーを無視するが、
集団を支配するにあたってはイデオロギーを積極的に利用するからである。
前者については堀江貴文の「尖閣なんてあげちゃえばいい」発言を、後者については「居酒屋甲子園」を思い起こしてみるとよい。





Googleは「創造性を必要としない仕事はすべてテクノロジーに代行される」と言っているが、
今のGoogleの発想だと、むしろ高度な判断が求められる仕事ばかりがコンピュータにとってかわられて、
肉体労働はあいかわらず人間という奴隷階級がやってる未来しか見えてこない。
ソフトウェアと違って、ハードウェアとしてのロボットを世界の隅々まで行き渡らせるだけのリソースは存在しないので。
http://lrandcom.com/automation





人々が「創造的な仕事」であると考えてる仕事のうち、果たしてどれくらいのものが本当にコンピュータにとってかわられないと自信をもって言えるだろうか?
たとえば株式投資において、プロの投資判断は創造的だろうか?コンピュータどころか、猿が適当に選んでも結果は似たようなものではないだろうか?
成功した起業家はその経営判断が創造的であったから成功したのだろうか?単なる生存者バイアスではないだろうか?