「程度問題」

安田浩一氏のやり方は程度問題として「あり」だけど、ヨーゲンの個人情報を拡散している周囲の人間は「なし」。
IWJは労働問題やヘイトスピーチ関連の記事では「あり」だけど、脱原発の記事は「微妙」で、輸血反対等にいたっては完全に「なし」。
結局、セクショナリズムによって同一集団における程度の差がある行為をすべて善(またはすべて悪)とみなす考え方がダメってこと。







小保方氏がほうぼうから批判されていたとき、少なからぬ人たちが小保方氏が精神的に崩れて自殺でもしないかと心配していたが、
実際に自殺したのは誰も心配していなかった男の上司のほうだった。
小保方氏の心配をした人たちは、人を見るセンスがない。
もちろん自分も、あの男が自殺すると皆目思っていなかったのでセンスはない。
あの男の自殺には、「男の原罪的な弱さ」が象徴されているので、思い出すたびに嫌な気分になる。