日本人に原罪があるとすれば、それは原罪であるゆえに他者に押し付けることはできない(自らが磔になる以外に贖罪の方法はない)はずだが、
他者の原罪を糾弾することによって特権的な位置に立ち、自らの原罪から逃れようとする人は多い。
「攻撃は最大の防御」は、こと倫理的な題材に対しては通用しない。






中高一貫男子校出身者」ってその時点ですでに格差社会の下手人のようなもんなのに、
いまさら「格差是正」を訴えてもそれ自分の罪を棚に上げて国家や政府に責任転嫁してるようにしか見えない。






ポストヒューマン的状況でない場合、科学の発展と人間の脳の発達には関連がない。
つまり、「科学の進歩とともに人間も進歩している」は間違いであるし、「科学の進歩によって人間が愚かになっている」も同様に間違いである。






「30代にもなって中高生のような色恋沙汰を見せられて痛々しい」という発言は年齢差別である。
自傷行為を周囲に見せびらして自滅する女性と、知的であることを誇示して尊敬から行為に持ち込もうとする男性のごたごた」なんて、
それが中学生だろうが老人世代だろうが同様に痛々しいのであって、そこに年齢を持ち出す必要はない。
思春期を過ぎた人間の脳は、そこから年齢を重ねてもたいして変化しないのだから。
「もういい大人なんだから慎み深くしなければならない」などという規範は、社会が個々人を都合良く縛るための道具に過ぎない。







現代においてある人が「自分が生きていることを何かに承認されたい」と欲したときに、もっとも安易にそれを叶えてくれるのが「国家」という枠組みであれば、
ナショナリズムや排外主義は(いくら理屈では間違っているとわかっていても)隆盛してしまう。
排外主義者に女性が少ないのは、女性においては「恋愛」が「国家」より安易に承認欲求が満たしてくれる枠組みであることが(男性と比較して)多いからである。








ある人が「被害妄想」を抱いているときに、「その被害は実在しない妄想である」と反駁しても
依然としてその人の感じている「痛み」は実在するのであって、こうした啓蒙は意味をもたないどころか逆効果となる。
その人に必要なのはカウンセリングや治療や投薬である。