「非モテ」論が必要な理由

「排外主義的傾向」と「友人数」の関係
https://twitter.com/sociologbook/status/535017477936132096

ここで述べられているように、ネット右翼ヘイトスピーカーというのは、
実際の攻撃対象がどうかというよりも、自分の人生を肯定できないことによって生まれる。
これは今話題になっているヨーゲンのような社会の底辺層だけではなく、
安倍晋三石原慎太郎橋下徹などにも言える。
要は彼らは「周囲が優秀なのに自分だけ落ちこぼれていた」だとか、
「弟が大スターで誰からも好かれ、自分はそのおこぼれに与るばかりだった」だとか、
「出自も家庭環境も最悪で世の中を恨んでいた」だとか、
そういうルサンチマンをこじらせてしまった結果として、排外主義に傾倒していったのだ。
この逃れられないルサンチマンとどう向き合う(あるいはやり過ごす)かというのが「非モテ」論の原点である。








例の船橋市議をここまでこじらせたのはNATROM氏の責任だろう。
ある人がニセ科学に親和的か批判的かという「素養」は、青年期までの教育で決定されるのであって、
成人してからいくら反駁してもそこで転向する可能性はほとんどない。
むしろ、反駁すればするほど当人はそれを攻撃と感じ、その反駁が隙がなく正しければ正しいほど逃げ場がなくなり、
結果としてどんどん過激な方向に向かっていってしまうのである。
そして、トンデモな主張が袋叩きにされる状況が目立つようになると、今度はニセ科学に親和的な素養をもっていた他の人がそれにシンパシーを覚え、
そのトンデモは世間に根を張って広まってしまうのだ。








世の中には、「原理的には悪だけれども、程度問題としては仕方がない」ことがたくさんあり、
定量的なものを無視して定性的なものしか見ない態度をとると、こうしたことがらに対して全面的に善か悪かで色分けしてしまう。
そして、全面的に善とされたものは、いつの間にか程度問題を突き抜けて大きな害をもたらすようになる。