人はなぜ選挙に行くのか

人はなぜ選挙に行くのだろう。
そもそも「合理的」に考えれば、自分が一票を投じたことによって結果が変わる可能性はほぼゼロである。
なんせこの国の国政選挙史上、一票で結果が左右したのはたった一件しかない。(1952年衆議院議員選挙の群馬1区)
もちろん実際に党員になって活動したり、友人をなくす覚悟で投票のお願いをFacebookやLINEで広めたりすれば、数十票単位での貢献はできるかもしれない。
ただ、数十票で結果が変わる可能性はやはりほぼゼロであって、労力に見合うものとはとうてい言えない。
結局、選挙に行くことに対する合理的な説明は存在せず、感情の問題として考えるべきだろう。
つまり、選挙に行き一票を投じることが、個々人にとってその労力を超える感情的な「効用」をもっているということである。
ようするに、「選挙に行くことと個々人の幸福感が結びついている」ということだ。






選挙期間になると毎度のことやかましく鳴り響く「選挙に行け」という啓蒙は、いまや多くの庶民から冷ややかな目で見られている。
こうした啓蒙のなにが嫌われるのか。それは、言う側と言われる側の非対称性にある。
マスメディアやネットメディアで「選挙に行け」と主張できる人というのは、基本的に著名な文化人であったりジャーナリストであったり作家であったりする。
そしてそういう人たちは、メディアで自説を主張することで、自分以外の人間の行動にいくばくかの影響を与えることができる。
選挙活動においていわば特権階級にいる人たちである。
しかし、言われる側の人たちは、たいてい自分自身の行動しか決めることができない。
つまりここには、「影響力」というものさしによる「持てる者による持てない者への搾取」がおこなわれているのだ。
だからこそ、言われる側の人たちは、自分ではうまく説明できずとも、言う側の人たちへの「反発」を覚えることになる。
言う側の人たちが「選挙に行け」と言えば言うほど、その反発は高まり、無関心や棄権は加速していくというわけだ。






政治参加というのはなにも選挙に行くことだけを指しているのではない。
こう書くと、「またデモに参加しろとかいう話か」と思われるかもしれないが、そうではない。
もっと身近なところに目を向けようという話だ。
たとえばあなたは、自分が住んでいる市町村の議員の名前をいくつ挙げられるだろうか?
恥ずかしいことに、自分は一人もわからない。
地方自治体の議員の名前なんて、見かけるのは街中のポスターくらいなものだ。議会の様子をテレビや新聞でチェックすることもない。
しかし、国会で議論されるような天下国家のことがらより、市町村議会でおこなわれる些末な議論のほうが、
本来的には私たちの生活に直結しているはずである。
なのに私たちはその身近な政治について、国の政治や世界情勢と比べてもあまりにも知らなすぎる。






日本の文化人たちが見落としているのはまさにこの観点ではないだろうか。
いきなり天下国家を論じても「どうせ私たちの生活に関係ないし、一票ではなにも変わらない」と思われるだけで、政治参加には結びつかない。
ある社会学者の研究によれば、政治決定の「結果」より、その決定の「プロセスにどれだけ関われたか」どうかが、政治に対する人々の満足度を左右するという。
http://d.hatena.ne.jp/kuma_asset/20051202/1133533432
そしてそのプロセスに一個人がより深く関われるのは、国家という大きすぎる場ではなく、「わが町」や「わが地域」という小さい場である。
日本に欧米モデルの民主主義が根付かなかった原因は、それを推し進めた人たちが大上段からの理念を説くのに終始し、
身近な地方自治の現場を低俗でとるにたらないものとして軽視し、政治参加と人々の幸福感を結びつけられなかったからではないだろうか。
(もちろん前段で述べたように、自分自身も身近な政治に無関心である。この文章は自己反省の意で書かれている。
 そして共産党など伝統的に地方自治を重視してきた政治団体が日本にも存在していることも明記しておく。)






最後にひとつ小町の記事を紹介する。現在のこの国の政治の現実がここにあると自分は感じた。

自治会役員選挙でもめてます
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2011/0113/377893.htm