日ごろの愚にも付かない論考とやらにはフランス現代思想を引用しまくるくせに、
「なぜ人を殺してはいけないのか」を聞かれてアルチュセールを出さないという思想的怠慢。







世の中に「正しい欲望」と「正しくない欲望」があったとして、
ある人がどちらの欲望をもつように至るかというのは、ほとんど当人の自由意志とは関係のないところで決まる。
「正しくない欲望」をもったゆえに生きるのに苦しんでいる人に対して「あなたの欲望は正しくないから正しい欲望をもてるように矯正せよ」と言うのは、
さまざまな外的要因によって貧困に苦しむ人に対して「正しい市民になれるように努力せよ」と言い放つのとたいして違いはない。
ただまあ、こういうことを主張しても、しょせん正しくない欲望は正しくないままなので、
可能な限り早く「欲望の指向を矯正する外科的治療もしくは薬剤」が開発されることを自分は切に願っている。








「まったく表現しないでもらえるなら内心は自由ですよ」みたいな言い回しを使う人を結構見かけるが、
「表現」と「内心」はそんなにすっきりと分別できるようなものではない。
ある地域の出身者が、自分の郷土に誇りをもっていたとして、その人に違う国の文化を押しつけ、郷土愛を一切口にしてはならないと命令すれば、
いくら「内心の自由は保障されている」とエクスキューズしたところですでにその人の内心は毀損されている。








世の中に炎上の種は尽きまじとは言うが、
もしそこに他人のブックマークコメントや書き込みがなかったとして、自分は各々の炎上案件を「これは燃えて当然」と認識できるものなのだろうか。
かなり、あやしい。
アーキテクチャが人間の思考様式を規定する」というのは、ゼロ年代を代表する議論であるが、インターネットにおけるコミュニティの発達は
「対象(客体)を自己が捉える前に他者の評価を把握する」つまり「ひとりで判断できない」人間を増やしたのではないだろうか。
さらに踏み込めば、自分自身(主体)が対象である場合にも同様のことは言えて、
たとえば日記を書くという行為について、かつては「誰に読まれるわけでもなく、自分のためだけに書く」ものであったのが、
インターネットによって「誰かに読まれることを期待し、他者のために書く」ものに変容してしまった。
端的に言えば、インターネットというアーキテクチャは、「主体を消去する」方向にはたらくのだ。


ただし、このような定量性に欠けた短絡的な社会評論は「ゲーム脳」のような発想に陥りがちでもあるので、そこらへんは割り引いて考える必要がある。